大日本帝国は、死の本能であり、殺人の美学であった。
1Q84は、死の本能であり、殺人の美学である。
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美しい殺人、愛に溢れた殺人、
正に生は死の一部であり、
生きることは如何に死ぬかでもある。
大日本帝国と1Q84の共通点と取るとこうなる。
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その共通点の階型を上げると、ここの国家原理主義がある。
国家を絶対に正しいとすると、
これに逆らうものは、完全な誤りとなる。
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これを抜けるには、
お上国家は絶対に誤りで、オウムが完全に正しいとせねばならない。
お上国家が正しいとすると、それは殺人の美学となる。
それを殺しにいったものが、完全な誤りとなる。
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ヨーロッパは弱者を殺すものを、殺してでも守った。
この変換点に殺人がある。
階型を上げるに、殺人が必要である。
これが心である。
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仏教はそれを認めず、殺人世界を作った。
正義は殺人によって達成さた!
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仏教には正義がなかった。
アメリカに正義はなく、唯の暴力を正義といっていた。
階型を上げる殺人、上げない殺人。
共に殺人が変換点だ。
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オウムの殺人は階型を上げる殺人である。
これが心ある殺人だ。
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これを認めないと、堂々巡りになり、
愛に逃げるが、それは妄想であって心のない愛だ。
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ヨーロッパはこの殺人に耐えた?
いやもっとスマートだ。
交わる平行線の相対論を開き、
国家と国民を一点で交わらせ、
かくして弱者殺しをしない世界を作った。
ここの殺人はなかった。
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交わらない平行線の国家原理主義は、殺人と強盗に成立する。
世界の夢であった、一億総中流の日本は負帰還の成果だ。
国家と国民がここで交わった。
だが日本は国家原理主義になって、崩壊した。
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1Q84は交わらない平行線の堂々巡りだ。
国家原理主義を乗り越えることが問題だが、その認識に至らない。
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ヨーロッパはそれを相対論に乗り越え、
弱者を殺さない世界を作り、
すると死刑は不要となった。
ヨーロッパは生の文明に切り抜けた。
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国家原理主義は、殺人と強盗の世界だ。
即ち、人間性の否定の世界だ。
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人間と人間性に不確定性原理があり、
文章で作った人は、現世の人ではなかった。
西欧は文章の人を、現世の運動量に実現した。
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アメリカと日本はそこまで至っていない。
文章を現実と思っている。
即ち、月を見なければ月はない。
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アメリカも日本も文章アスペルガーだ。
即ち、強欲が、人間性だと思っている。
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